PIECES

或る男の絵 古川満春

第二章 「沢山の人達へ」

今日起こった事をありのままに話すと
気づいたら宣言していた。夢は?「沢山の人に僕の絵を見てもらうことです。」
私の人生で今までにしたことがない。こんな宣言は。
これが私の夢だったのか。勢いで言ったことが私の遠い未来を一瞬照らしたようだ。

(母にガン見つかる)
2022年12月22日(木)
母が病院で胃カメラの検査を受け、医師に胃がんと宣告される。
私が仕事から帰ると、いつものように夕食を用意していた。
「明日も検査だけど、朝は送れるよ」と母
夕食を食べていると親父が険しい表情で「明日の事は聞いたのか?」と聞いてくるので、少し困惑して「明日・・・?」と聞き返した。そして「言わなくていい!」「いや、言う!」のやり取りのあと、親父の口から母が胃ガンだという事を聞いた。
私は「先生が言ったの?」と確認するばかり。父は「家の事は心配するな」と母を安心させていた。私は「なんとかやっていくしかない」と言うのが精一杯でした。そして夕食を食べ終わる。
TVなどでガンになった有名人を見たりしていて、厳しいと思った。気を抜くと泣きそうで、楽観的に考えるしかなかった。そして甘えていてはいけないと思った。

(一歩一歩)
少し母の荷物を背負いたい。
それから、買い物を意識してやるようになりました。MYエコバッグを買って、近所のスーパーを物色、良いなーと思う商品を少しづつ買って帰ります。あくまで無理のない範囲で・・・。

(手術成功)
どうしようもなく不安で心配なので仕事をお休みして、かといって何かするわけでもなく、しかし腹は減るので肉まんを食べて、落ち着いたら眠くなったので2時間ほど寝ました。起きたら昼過ぎで、親父は宅食を食べた頃でした。この前豚肉を買っていたので、何か作らないとと思い、豚汁を作りました。具が多すぎるし、鍋は小さいし苦戦しましたが一応完成、これで夜は大丈夫。
出来た後片付けをしていたら、「手術終わったらしいぞ!」と父の声。どうやら無事に終わったらしい。
母に時間をおいてメールしたらしんどいと返ってきた。ひとまず、安心した。
夕食、まずい。(ドロドロで泥みたいな豚汁ができました。)

(外に外に)
私は以前から活動していた彩遊会を休会にしてもらいました。日常生活の変化に対応するために。
刈谷市での展示はハードで、母の車をアテに出来ない今、仕方なかったのです。代わりに、知多の内海のコンテナカフェでの展示を不定期でやってもらえることになりました。コンテナカフェ「茶居留」、オーナーは引き寄せる人で普通じゃない人もたくさん集まってきます。

(アート&ユー)
私がこちらに移ろうと思った理由は、画家やその卵が出入りするという事、指導者も美大出でしっかりしているという事です。まだどうなるかわからないですがここで自分の絵を見つけ、沢山の人達の個性と出会いたいです。

(T先生の死)
その訃報を知ったのは、パソコンで検索をしたからでした。もう今から2年も前の事でした。
私は十代の頃、K塾の美術研究所に通っていました。そこで油彩画の指導をして下さったのがT先生です。
私は何度か先生に加筆された事があります。ある時に裸婦の油彩を描いている時に先生に加筆をして貰いました。その時に体中を電気が走った事を覚えています。私のタッチを飛び越えて、人物が浮かび上がってきたのです。
私はその上に筆を加える事が出来ずとうとうそのまま講評会に出してしまいました。(講評は、スルーでした。当然ですが。)
その後、大学を辞めたりしながらも絵を続け、一度先生に見てもらいに絵を持って行きました。先生は変わりない優しい対応をして下さいました。「古川君は(きわと質では)当時の僕を越えていますよ。」と言ってくださいました。とても嬉しかったです。とんでもない!と言いたかったです。
先生、有難うございました。先生のご冥福をお祈りします。

(新たな世界)
沢山の人に見てもらいたい。何を?。
自分らしさとはいうものの、存在証明はしたものの、まだまだ疑ってしまう。私は小学校の頃沢山のノートに落描きをしました。その時の自由で少しおかしい、笑ってしまう絵を母は思い出し、「あの頃の絵が良かった。」と言います。
厳しい表現の世界で私は長谷川利行が好きで、「あの頃」の絵にあったもの。そして今ならわかる事、笑い。そうだ、自分に向けてじゃなく、これからは沢山の人達に向けて描く。沢山の人に笑いを届ける。見る人の心に絵を描けばいいのだ。

(天龍峡の冬・霙)
2024年の正月も過ぎてしばらくして、また何度目かの天龍峡へ向かいました。天気予報では、北の方で雪と言っていました。雪の天龍峡が見たいと思いました。
飯田線で4時間ほど、しかし雪はなく小雨でした。現地につきいつもの場所で一礼をして龍の神様に挨拶して取材を始めました。曇ってはいましたが特別変わった事もなくてグレーの風景でした。昼食を済ませて帰りの電車を待ちながら空を見ていると、急に空が暗くなりだして何か降ってきました。よく見ると雨ではなく、霙でした。これは龍の神様の粋なはからいと思い、傘をさして撮影しました。
次の日、早速制作に取り掛かり、またお気に入りの絵が一点作れました。

(Hさんの行方)
少し遡るが、私が精神病院のデイケアに通うようになってしばらくした時に、Hさんという男と知り合った。Hさんは酒が好きでというか少しアル中で通っていたと思う。特別共通点もなかったが、その後数年付き合う事になる。いわゆる飲み仲間だった。
お互いに暇を見つけたら連絡を取り、キャバクラやらカラオケやら居酒屋やら行くようになった。
とにかく酒を飲む事、楽しい酒を飲む事が好きで、ある時は道で江頭2:50みたいにコケるほど飲む事もあった。その時は顔面から流血していた。家に帰ってからも柱に後頭部をぶつけて救急車を私が呼んだ。
付き合いが長くなってきてから、ある時母の肖像画を描いてほしいと頼まれて描いていた。しかしその後、その母が亡くなり、幼いころから会ったこともないと言っていた父親も京都で亡くなったという話を聞いた。Hさんは母や父の事で奔走していた。
そして連絡が取れなくなった。
連絡が急に取れなくなって少しして、行ったことのあるHさんのアパートを見に行った。そこで私は、家具のない空っぽの部屋を外の窓から見たのだ。
Hさんの身に何が起こったのだろう。そしてその事は知ることが出来なくなってしまった。銀河鉄道の夜でカムパネルラは母のもとへ行ってしまう。わからない。だが、Hさんと過ごした記憶は私からは消えないであろう。

(母、回復)
2024年の2月14日(水)、この日は何度目かの母の検査の結果の診察の日であり、私の誕生日でした。
私は用事で出かけて、母も姉と一緒に病院へ行きました。私は昼過ぎに家に帰ってお土産をテーブルに置きしばらくして母が帰ってきました。どこかすっきりとした風に見えたので、結果はどうだった?と聞くと、大丈夫、どこも悪い所はありません!と医師に言われたらしくて、とにかく、良かったと胸をなでおろしました。今は本当に手術前みたいに元気で、とてもとてもありがたいです。でも、ちゃんと助けたいと思った事をずっと胸に残しておきたいです。母は偉大です。「死んでも飯を作りに来る!」という名言とともにずっと元気でいてください。

~第二章 完~

第三章